今月のメッセージ

 
 

この子だれの子(平成14年12月)  「本ものゝ笑顔」


 30代半ばかと思える彼女は美人で、4人のこどもの母親であり、何十人かの食事を担当する寮の責任者でもある。長女が10才、末っ子の男児は5才だと言う。 中の2人も女の子だから、寄り集まるとこどもと言えども姦しい。おかあちゃん…お母さん…ナァーオカアチャン…ここでは譲り合いはまったく通用しない。 学校での出来ごとを話したい子、宿題のことが話題であったり、お姉ちゃんが…と泣き顔で訴える妹、などなどお互いが先を競って4人が同時に、しかも別々のことを話しかける。 母親を取り囲む円陣から弾き出されても、負けじと輪の中へ割り入って行く男の子など、実に頼もしい。姦しいのとその上にソプラノとテノールが混って淒まじい極みだ。  ウルサイ!!おだまり!!頭ごしに怒るでもなし、どの子の言うことにも耳を貸し、うんうんと相槌を打ちながら相手を納得させ、話しの交通整理も。やがて、お姉ちゃんお願いよ、○○ちゃんは賢しこいね、あんなに騒がしかったこどもたちの宥めぶりは母親でこその御業とでも言うべきか、実にお見ごとだ、恐れ入るとはこのことか。  どんな“もの”にも命があって、野菜も魚もお米も肉類も元は生きていたの、その命を頂いて、私もあなた達も生きているんでしょ。外出のとき電源切ってる?電気が勿体ないもんね。―若い寮生たちへは折々にこんな話しも。 こどもたちに皆さんから丁戴する“古着”すごく役に立つんです。―彼女の笑顔はからだの底から湧き出ている。


この子だれの子(平成14年11月)   「掃除も洗濯も嫌い」


「この掃除機、故障じゃない?ちょっと診てぇ〜」と二十前後と思われる彼女の声は明るく、甘えさえも感じさせた。溜まった塵を袋といっしょにポイ捨て、と言う機種ではない、丁度半程のところから二つに別れるタイプだった。 フィルターの部分を取り外した途端に「キャー」、時ならぬ声に還暦をすぎたであろうご婦人が駆け寄ってこられた。悲鳴の原因がぎっしりと詰まった掃除機内の塵と埃であったことは、このご婦人にも直ぐ理解ができた。 「イヤーン怖い」!!と彼女は居合わせた者の背中に抱きつくようにして隠れるのだった。「ワァーこれはひどいや、腹いっぱいの上にもっと喰えと押し込んでいるようなもんだ」 「フィルターの詰り具合、人間だったら肺癌の末期症状ってところかな」あまりの状況に思わず顔を背けた。  いつの間にか何人もの人が集まり、掃除機の掃除をしている私の手元に見入っていた。ご年配のご婦人、姑気分よろしく「あんた、よう見ときよ、怖いなんか言うとってどないすん、女は結婚したら掃除や洗濯せなあかんやろ」するとその言葉も終わらぬうちに「掃除も洗濯も嫌いやもん!!ウチ結婚なんかせえへんも〜ん」ときた。  さき程の明るく甘え気分とはまるで別人の態に私は唖然、「親の顔が見たいワ」!!と憮然とした表情のご婦人も顔が引き吊っていた。職場の後輩に掃除を頼んだら「そんなこと清掃会社の人がする仕事じゃあない」こんな返答に「何考えてんだ、自分の職場だろ!!ねえ、そうでしょう」と憤慨していたある企業の先輩の顔を思い出したが、掃除嫌いのこの彼女も後輩と同類かな。


この子だれの子(平成14年10月)   「持ち味と平等観」


 今年の体育の日は10月14日月曜日。その日に第37回姫路市スポーツ祭が予定されている。9月には中学校体育祭・小学校運動会も終了した。  この時期になると気になることがある。  15歳頃からだろうか?一人ひとり『違った持ち味』があることに気づき始めるのは?それまでは、「勉強」と「運動」のわずか2つだけの観点で自分を計る生活をしてきたように思われる。そして、それを強いているのが我々大人たち。いや、一番に『独自の持ち味』を認めてやるべき親自身が、それを認められない社会になってしまっている。  一時、同じタイムの児童を並べた徒競走が話題になったことがある。果たして、その学校はどのような平等観を持っていたのだろうか?このチャンネルでは君が一番、でも、別のチャンネルでは他の子が一番、また別では他の子が…。そんな発想を持っていれば、かけっこでビリだった子も別の場面にチャンスはある。  『平等』とは、一人ひとりみんな『独自の持ち味』があるという前提の元で、初めて成り立つ考え方ではないだろうか?2つの観点でしか観られない人には、2チャンネルの画面しかない。20種類の観点を持つ人には20チャンネルの画面が用意される。  多様な可能性を秘める子どもたちが、将来に勇気や希望を持って歩むために、我々大人たちは、どのような 『平等観』を持てば好いのだろうか?  この世に不必要な人間は一人として存在しない。これがキーワードである


この子だれの子(平成14年9月)   「△思考のすすめ」


 いつ頃からか、自分の言葉に「ドキッ」とすることが多くなった。自分では『部分否定』をしたつもりなのに、相手は『全否定』したと受け取っている。  以前、ある母親と話す機会があった。その際、今の状況では子育ての方向転換をした方が好いと言った。だのに母親本人は「今までの私の子育てを全て悪いと言われた」と受け取った。私は、「今までの状況ならお母さんのやり方で十分だったが、第2次性徴期に入った今では、対応を少しずつ変えていくべきである」と伝えたかったのに。これを「言葉足らず」ではすませられない。 このことは、個々の思考においても同じ事態になっているように思われる。本来は、今まで頑張ってきた自分自身をねぎらい励ましてやりたいのに、息詰まった状況になると、つい「○でないから×である」といった二者択一的な結論に陥り、自分自身に『全否定』の言葉を浴びせてしまう。  今私が心がけているのは『○と×との間には、いろんな△がある』ということ。理詰めの思考だと、この努力は容易でない。でも「人生、我が身の思うように運ぶことはほとんどない。結局天の計らいに委ねるしかない。」といった心境を心がけると、この△の多様さに驚かされる。さらに、後々に振り返ってみると、その時に「○と×とは2−0の大差」のようにとらえていたものが、実のところ、51−49の僅差であったことに気づくから不思議である。


この子だれの子(平成14年8月)   「W杯とチーズ」


 若者は叫ぶ、「はじけさせて!私のやりたい事を、思う存分やらせて!」  大人は答える、「待て待て、そんな事をしていたら、お前の将来は・・・」  そしてうまいことに、若者には、本能的に大人に従う習性があり、大人には、自分の尺度でしか若者を測れない愚かさがある。この狭間で、一人ひとり、情熱か安全志向かに揺れながら、次世代にバトンを渡す。  さて、この6月は、W杯サッカー一色であった。この熱狂の中、ふと、昨年ベストセラーの「チーズはどこへ消えた?」を思い出した。『変化』を受け入れられず、停滞から脱しきれない「ニッポン」の大人たち。しかし、日本の若者は、このW杯で、新しい国民性をしっかりと世界にアピールした。  英国タイムズ紙は「戦後60年、自国の名前を連呼することすらはばかられてきた国民が、サッカーでやっと声を与えられた」と書き、「年功序列よりも実力主義、古い民族意識よりもグローバル化、感情の抑制よりも発露を重視する、日本人の価値観の変化」と分析している。  若者は大人の許容範囲内で行動するが、したたかでもある。あらゆる情報をキャッチし、自分の持ち味を発揮しようと、今か今かとチャンスをうかがっている。このW杯を通し、我が国「ニッポン」の将来を、安易に楽観は出来ないもの、若者にチャンスを与える(任せる)ことで充分期待できると思えた。


この子だれの子(平成14年7月)   「誰の為の教育改革」


 「ゆとりのある教育」耳ざわりはさておき、どんな芽を出すか不安でもあり楽しみでもある。―6月号文末から― 新学期がスタートして3ヶ月余り、こどもたちを見ていると「ゆとり」など、どこにも感じられない。こんな声が聞こえてくる。「ゆとり」とは一体どういうことか、分かっているようで説明しようとするとうまく出来ないようだが、反対にゆとりがないとはどんな状態かを考えて見ると、「あくせく」(せかせかとひまのないさま・こせこせと小事にこだわる)いつも時間に追われていたり、他人のことや先のことを考える余裕がない、こんなことになりそうだ。 せっかく増えた休日を学力が下がるからと決めつけ、塾通いに当てるなどはゆとりとは程遠く思える。 つまり目先のことだけではなく、長い目でものを見ることを身につけ、自分のことだけでなく周囲を見渡し、広い視野でものごとを考える力を養えるような過ごし方を望みたい。 3ヶ月や半年でなどとはとんでもないことで、もっともっと時間を積み重ねてこそ、感じられる「ゆとり」であろう。 本来、人間の持つ優しさ、正直、勤勉、勇気などを重視するならば効率偏重を改めねばならない。 教育改革はこどもや学校だけの話ではない。子どもの質は大人の質によって決まるといわれる。人の苦しみや痛みが分かり、生きものや自然を大切にする心を育くむには、人間を超えた大いなる力への畏怖の念からのみ生まれでるものだと信じる。大人の教育改革こそ先決だと言わねばならない。


この子だれの子(平成14年6月)   「得育より徳育を」


 新学習指導要領や学校5日制の実施から2ケ月を過した。 生きる力か知育重視かと論議を呼んだが、どちらが大事かと 較べ、二分法で考えることではない。当然のことだが両方と も必要且重要であることは言うまでもない。  戦後教育の反省から、知識偏重を改め「ゆとりのある教育」 をと文部科学省の改革案である。が、一方では教育レベルの 低下や学校間の格差の問題、受験産業・塾の増加等々学校現 場のみならず家庭をも巻き込もうとしている。  改革によって、その向うにすばらしい結果が待っていると も思えない。改革すればそれでよしとするものでもない。 システムを変えることも必要だろうが、それを運用するのは いつの時代も人間である。政治や経済とて然りだ。  そのことに携わる人物によるところが大である。ましてや 「人間づくり」「人づくり」が教育問題である以上、この大事業に関る者たちの誇り、熱き思い、使命感が求められよう。 学校の先生に対する資質が問われるのも当然の姿といえよう。  我が子が通った小学校、体育館舞台横には、当時奈良東大 寺管長であった(故)清水公照師の揮毫による「体知徳」の額 が目を引く。体育・知育・徳育。まず元気に健康でよく遊び 体力づくりを知よりも先にしたところが、小学校のこどもた ちを意識してのことであろうか。  戦後教育からすっかり姿を消したと言える「徳育」こそ必要だと思えてならない。「ゆとりのある教育」耳ざわりはさておき、どんな芽を出すか不安でもあり楽しみでもある。


この子だれの子(平成14年5月)   「生きる力と学力」


 「お母さ〜ん、どこか行こう〜な、なあ〜どっかへ連れてって!!」春休み、こどもたちにせがまれること毎日、つい「おばあちゃんとこへ・・・」と言った。こんどは「いつ行くん、はよ行こうな、まだ〜」。疲れ気味の表情に溜め息交じりの母親と、まるで元気の固まりのような孫二人がやってきた。「こんにちわ〜」玄関を駆け上ると直ぐに、6年生になる兄「あぁ〜腹へった〜」2年生の弟「おじいちゃん―外でなんかたべような〜」と。「そうかそうか、ええお天気やしな、庭にござ出して外でごはんたべよう〜か」「そんなんあかんわ、ちがうやんかレストランへ行こうな、僕も兄ちゃんも成績上っとったんや!!」「二人とも玄関のくつばらばらや、はきものちゃんとそろえる約束、守れんかったもん、レストランはこんどやなあ〜」 さて、4月から一斉に総合的な学習の時間が導入され、さらに完全学校5日制に伴い「生きる力」と「学力」をどう両立させるか。校長たちのあいだも賛否両論さまざまのようだ。「新学習指導要領がどんなもんか、私ら普通の母親にはよう解らんわ、いま小学生やから、二重まるが増えたことで喜んでるけど、中学生になったらどないなるんやろ?」と二児の母親は学力低下に対する不安は正直な気持ちだと言う。「真面目で仕事第一のお父さんはええこっちゃけど、息子が中学生になったら父親の出番やな、ときどきでええからな・・・こどもらは母親のことばの中から父親に対するイメージを造るさかい、日頃の心づかい、ことばづかいが大切やな」遊び疲れ、無邪気な寝顔の孫たち、夢はきっとレストランでの食事かも。


この子だれの子(平成14年4月)   「出会い」


 いったい、自分は一生で何人の人に出会うのだろうか?五千人くらいか1万人以上か・・・。地上の人口は60億人を越えるとか?はるかに一生知り会えない人の方が多い。そう考えると、出会いの偶然さと大切さが身にしみてくる。 人は、自分が思っているよりはるかに多くの出会いをしているようだ。出会いに際して、人は3種の対応のパターンがある。愚者は、出会いに気づかない。凡人は、出会いに気づいても、その大切さがわからず放っておいてしまう。賢者は、出会いを活かし、自己を高める努力をする。 人と人の出会いは、単なる肉体の出会いではない。その人の家庭・祖先・人脈・組織環境との出会いなのである。その貴重な環境を感じて大切にする人は、相手からも大切にされ、その出会いを活かすことができる。  また、自分という存在は、勝手に自分で生じたのではない。親同士の出会いがあり、そこから愛が生まれ、そして,神秘な交わりの後に、いつしか新しい生命となってこの世に誕生させていただいたのである。その絶対的な事実とその背後にある、それぞれの祖先や環境の出会いの大切さに気づくと、親に対して、決しておろそかにできない。自分は、2つの先祖(血)の融合であり、過去から延々と引き継がれてきた命の結晶なのである。自分の子供に夢を託すように、すべての先祖から,夢を託されているのである。出会いの深さに気づくと家庭の重さに気がつく。


この子だれの子(平成14年3月)   「人としての覚醒」


 人間は、いったい何のために存在するのだろうか?と真剣に考えてみた。毎日をただ、食べて寝て、仕事して楽しいことをして、喧嘩したり、泣いたり笑ったり・・・。人は、この世にふと、命を与えられ、幼児になるころに「自分」を「意識」としての記憶にもつようなる。そして、いつか時が経つと寿命がきて、永遠の眠りにつき、その瞬間に「意識」が消えてしまう。はっきりと言えるのは、例外なく人は全てこのパターンで、2度と人生を繰り返すことができないということだ。 大宇宙の中で、その小さな太陽系の中の小さな星、「地球」上に、無限の命が存在する。その中で、偶然にも、今、ここに自分は存在する。そして、その「存在」同士が、さらなる偶然に、出会い、時には、同調しあい、不思議な感情「愛」のもとに子孫をつくることもあれば、対立しあい、競争したりする。そして、およそ、100年もすれば、すべて人は入れ替わってしまう。その繰り返しが今まで何千年と続き、現在に至っている。そして、これからもおそらく続いてゆく。 ある日、この世に存在するものは、自然のままのものと、人が創造したものでしか成り立っていないことに気がついた。鉛筆もコップも、橋もビルも、すべて誰かが頭のなかで考え、実在化させたことによって存在している。――― 人は、一つは、人という生命を継続させ、より進化向上してゆく為に、もう一つは、頭に描かれた想像(夢)を、自分という肉体を使って、現実化させる為に存在しているのではないだろうか?地上にあるすべての生物のなかで、唯一後者の使命を与えられているのは「ヒト」だけである。 このような摩訶不思議な偶然により、肉体と意識を与えられ、貴重な使命を与えられていることに、心から気がつくことを、「生命の覚醒」ということができる。何のために働くのか?何のために勉強するのか?何のために今の両親のもとで命を与えられたのか?そんな雑種な質問も、生命の覚醒を経ると、答えは簡単である。しかし、その答えは、言葉や文字で伝えられない。覚醒こそが、答えを真に自分のものにする方法なのである。 本来、学問は「生命の覚醒」のためにあったのである。小なる覚醒が小学で、大いなる覚醒が大学の目的であった。それなのに、いつしか、学問は仕事のため、金のため、地位のためとなり、本来の役目がなされなくなってしまったのではないだろうか?「生命の覚醒」は、覚醒した人でしか教えられない。子供に自分の命の存在を教える師を「教師」という。そういう教師に教えられた子供は、夢をもち、勉学に勤しみ、家庭を大切にし、先生を敬うものだろう。


この子だれの子(平成14年2月)   「私のプラス転換」


 「厳」→「慈」、「力」→「愛」。これは、「叱りとばすべき」か「受け入れつつ叱るべき」か、二者択一的に迷っている時、思い切って、日頃から引っかかっている言葉をプラスに転換させたものである。やり始めると、面白いように変換できる。作業を続けていて、『評価の時機』を叱った直後でなく、何年か先に置いた言葉にすると、心にすんなりと入ることに気づいた。  それから2年余りの時を経て、近頃は、「この子は私だけの子どもではない。子どもは、先祖からのバトンタッチの証であり、また天からの授かり者である。私の思い通りに出来る訳ないし、思い通りにしようとすること自体不自然だ。」と思うようにしている。だから、評価を急がない。どうしても他人の評価が気になる時は、「この世は高々80年。あの世の方がずーっと長いんだから。」と、身近な評価は流して、あの世での評価を優先させようと心がけるようになった。さらに、思わぬ事が起こったら、天に向かって「一体私に何をお望みですか?」と問うにとどめる。( 決して身近な所に原因や責任を求め、傷つけ合わない。)  昨年末に「我が子に何を望むのか?」を突き詰めて考え、そして、たどり着いた答は『活きている、笑っている、目を輝かせている』である。何はともあれ、第一に『いのち』を最優先。第二に、どんな困難にあってもへこたれず、出来る限り笑顔で対処。第三に、いついかなる時でも、夢・希望を抱いて歩んでほしい。  今日までをふり返ると「子育て」とは言うものの、実際は、子どもの成長に伴って、親自身が学ばせてもらっている感がする。  


この子だれの子(平成14年1月)   「新年に思う」


 人間を「万物の霊長」と呼ぶ理由は何だろう。多様な観点から数え上げることができる。  その一つは『こころ』の存在である。この『こころ』にしぼったとしても、また種々の観点に分かれるが、新年ということでイメージについて考える。  明治時代にクラーク博士が「少年よ大志を抱け」と言ったが、今日の少年たちはどのような志を持っているのだろう。最近、青少年による大きな事件が多い。その少年たちは、人生をどのようにイメージしていたのだろうか。  一方、昨年の天声人語に「大リーグのイチローや、サッカーの中田を平成の志士」とうたっていた。この違いはどこから生じたのだろう。  私は、その子を取り巻く大人たちが、その子の幼少年期に送ってきたイメージに決定的な違いがあると考える。言葉はもちろん、一つ一つの動作からもイメージは伝わる。たとえ本音と建て前とを使い分けたつもりでも、身体から発するイメージはごまかせない。大人のイメージが、そのまま子どもに伝わってしまう。そして、送られたイメージは、子どもの夢や希望の様相にも大きく影響してしまう。  こういう私も親の一人である。これまで送ってきた空気を、我が子がどのように受け止めるのか。そして、それを、孫にどんな味付けをしてバトンタッチするのか、ともあれ、今年こそ、子どもが大志を抱けるような、溌剌とした空気にあふれる一年にしたいものだ。



平成13年1月〜12月 この子誰の子
平成12年2月〜12月 この子誰の子
 


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