この子だれの子(平成12年12月)


 「だいたいカカシというものは、こわそうな顔つきとつよそうな武器などを持っていて、さらにくるっとまわって、どちらにもにらみをきかせられるように一本足になっている。いくら大切な作物でも一粒も鳥にやらないぞというカカシの態度と農夫の気持が正しくない。  たがやしたり種をまいたり、見はったりがんばったりしたのは、たしかに農夫とカカシだが、よく考えてみると、おひさまや雨や土や他のいろいろなものにもお世話になっているのだから、それらに感謝。よく実ってありがたい。少しみなさんに「おすそわけ」と・・・・・。  そういうカカシにしつける農夫が正しい。    −絵本 小学生低学年向きから抜粋−  こわそうな顔つきでにらみを効かせ、足らざるを求め不足のことばを吐くか、学校や先生をはじめ多くの人々やいろんなものにお世話になって、よく育ってありがたいと感謝できるか、他人のことなどと我が子ばかりに目を向けるのか、子育ても「おすそわけ」の心境で関わりたいものだ。絵本を読んだこどもが「お母ちゃ〜ん、おすそわけってなに?」「アラ!!カカシがスカートはいてんじゃない」そんなことだけは言わないで下さいよ。


この子だれの子(平成12年11月)


 85才が二人、75才が二人、65才が二人と申さばオヤ老人会?と、とんでもござらぬ、いづれ劣らぬ達者婆さんグループの温泉旅行にござる。三人寄れば姦しいとか申すが、その姦しいが2倍とあっては真夏の蝉顔負け、以下車中談義の一部、敬称略、順不同にてお伝え申す。  さて、溯ること50余年。戦中戦后の体験はお互い共感できるとあって話題は湧き出ずるごとく。姫路の空襲、食糧難、疎開、衣料不足、寝るときも毎晩もんぺで、女学校時代の先生に憧れてと初恋物語、さらに特攻隊や挺身隊のことに及ぶなど尽きるところがござらぬ。  リズムに乗って決まったかのように起きる爆笑は、全く年を感じさせぬのは、むしろ驚異でもござった。  高速道路のお陰で成金になったA子さん、兄妹で財産争うて死んでしもたで。うっとこ孫としょっちゅう喧嘩するけど孫は可愛いで。私ら娘時代、物は不自由やったけど不幸やとは思わなんだなあ。あんた、ちゃんと検診受けよってか?なんぼタダでもわては病院きらいやねん。  このごろ若い子ら、じきにひと殺してからに怖い時代や。なんやかんや言うても家庭の責任やで。ほんまや、お金さえあったら幸せや思てか?こなして元気で温泉へ行けて、もったいないことやなあ、いまは幸せやなあ。  うちの高校生の孫、男やけどグニャグニャしとんや、もっと胸張って背すじちゃんと伸ばさんかいな  -中略-  運転中の拙者、思わず姿勢を正したのでござった。


この子だれの子(平成12年10月)


 真夏の甲子園、高校野球大会は毎年数々の感動のドラマを展開してくれる。野球に限らずあらゆるスポーツをおして青春を燃焼させる高校生たちと、凶悪な犯罪によって社会を震撼させた高校生。同じ年代でありながら、どこでどう違ってきたのかと考えさせられる。  少年による相継ぐ犯罪が社会問題となり、少年法の見直しが物議を醸してはいるが、政治家、官僚、警察官や学校の教師たちの不祥事、宗教までが金儲けや殺人に手を染めるなど、少年たちを取り巻く大人の世界にこそ、悪質、凶悪、破廉恥な犯罪が多いのが現実である。  少年たちの問題云々の前に、腐敗化した土壌をつくってきた大人社会こそ先に反省を問わねばならない。  「ゆとりの教育」が提唱され、平成14年度から実施される小中学校の完全五日制。これによって授業時間はさらに削減される。知育、体育、徳育といわれているが、いま教育が荒廃の原因は徳育の欠如にありと、このところ盛んに「心の教育」が叫ばれるようになってきた。  だが、教育とは元来「心」の教育であるはず。忍耐、努力、気力、協調、たすけあい、規律、ロマン・・・と行き着くところは「心」が基礎ではないかと思える。  甲子園を目指した球児たちは、苦しさに耐え、気力を養い、責任感やルールを学ぶなど、人としての大切な基本を教わったであろう。「ゆとりの教育」とは自由にでもなければ努力や勤勉を怠ることでもあるまい。


この子だれの子(平成12年9月)

 校長室を訪れると相手は鎮痛の表情であった。呼びつけられていたのだろう、直ぐさま担当の教師が、こちらも神妙の面 持ちで入って来た。一瞬、緊迫感が漂う。  「息子が学校へ行きたくないという。放課後のクラブ活動で先生に叱られたのが理由で、顧問の先生はどんな指導をしているのか、あまり厳しくしないように」といましがた生徒の父親から電話があったのだがと校長。  生徒の学年と名前の確認が終わると「いったい何のことですか?」担任の教師は怪訝な顔をした。  市の中学総合体育大会が目前に迫り、先生も生徒も試合に向けて熱くなっている頃のことである。「体罰!?とんでもない、そんなことは一切無いことを誓います」  さて、この話には後日談がある。三年生の当人は成績も思わしくなく、かねてより欠席の目立つクラブ活動を辞めたいと考えていた。平素単身赴任の父親はそのことをほとんど理解していないこと。「そんな態度では試合にもならんぞ、やる気がない者は辞めてしまえ!!」と顧問の先生は部員全体に激を飛ばした。クラブ活動を辞めたい息子の話を父親が鵜呑みにしたこと、などなど母親からの侘びと報告にまずは一件落着となったが、「生徒には常々からクラブ活動の目的は試合に勝つことではなく、どんな気持ちで練習に励むかが大切なことだと伝えているのですが」と担当教師がつぶやくように語る。安堵感の次に今度は急に腹立ちがこみ上げてきた。


この子だれの子(平成12年8月)

 知人のT氏は夫婦ともに公立中学校の教諭で、中学と高校に通 う息子二人との四人家族。
 両親が学校の先生とくれば、勉強や成績のことにさぞかし口うるさくて、こどもたちも学習塾に、と想像するのは早計で、学校ではクラブ活動に汗を流し、家の中ではギターを弾く兄貴と、弟も部活動以外に学内では○○委員など、共通 するのは両者ともに「明るい」ことだ。
 T氏と出会った当初、むすこたちは小学生であったがいまでは彼らに大人の匂いさえ感じる程に成長した。おたがいに日程を繰り合わせての家族旅行や、揃ってボーリング場へ出向くなど、折々に家族のふれあう機もあり家族の会話には冗談が飛び交うのもめづらしくない。
 「生徒たちの顔を見るのが好きだ」と学級担任とクラブの顧問はT先生の生きがいのようだ。
 大切な人さまのこどもたちのための教員だ。学校という職場での労を惜んで、我が子の試験勉強に力を注ぐことなどしたくないと語る。
 このT家に夫人の母親が長期滞在した。義母との話し相手にとのお招きに乗って、一家団欒の食事会にあつかましく参加となり、ご馳走になった。
 食後は皆でカラオケハウスへ、孫たちが唄う歌に「私はダメ」とすっかり遠慮がちの母を、夫婦が両側に立ち、懐メロを。食事の席でのことも併せ、義母との接し方にT家のすばらしい家族教育を教わった。



この子だれの子(平成12年7月)

 石南花の大輪、自然が創り出すあまりにもその美しさ に暫し感嘆した。ひとことの挨拶がきっかけで知り合 った男性は、岡山の小学校勤務の先生で2年生の担任で ある。少子化による学級減のこと、男子職員の割が少 ないこと、先生の平均年齢が高いのは問題だと、他に 親の再教育が必要だと熱っぽく語るのだった。
  「親が言うても聞かんけえ先生から言うて・・・」と母親、 「担任じゃ言うてもわしがどんな人間か、どこの馬の骨か あんた知らんじゃろう。そんな相手に自分の大事なこどものこと 頼むんは無責任じゃ。いけんで」と先生が切って捨てた。
 胎内で10ヶ月のあいだ、出生後はこどもが最初に認 識するのは母親である。 懐に抱かれて乳を呑みながら、肌の温もりを感じ ながら母子一体感がしっかりと育つ。小学校の2・3 年ごろまでのしつけは母親の全責任だと言われる。 「いまはうちん中に怖いもんが居らんけん、親が子 どものことよう観とらんのじゃけん、小さいうちに親の 言うこと聞けるようにせんと、中学生にもなったらど うするんな」と担任先生は憤慨の面持ちだ。
  土地の訛りであろう。耳に伝わる響きこそ優しいが いずれも的を得たことだ。このところ相継ぐ少年事件 も因を辿ればこんなところから小さい芽が生え ていたと思える。旅先で知り合い、花を愛でる あの先生に又出会って見たいものだ。



この子だれの子(平成12年6月)

 子どもをどう育てるか、上手に育てる方法はないか。 こんな質問に何と答えるのか困惑するものだ。  
さて、事業経営者の集まりで「いかにすれば儲かるか」 こんなテーマでと講演を依頼された講師の例がある。
 1.良い商品を作ること 2.価格は他社よりも安く  3.ムダを省き経費を少なく これを実行すれば必ず 儲かります。以上、おわり!!と5分足らずで壇上から降 りた。予想外の展開に開場はざわめき、主催者がなんと かとりなして講師は再び登壇となった。
  「あんたたちは何を思って事業やってんだ!!経営とは いったい何か、事業経営の目的は何か」最前列の数名が 指された。ある勉強会で冒頭のひとこまだがー  
  子育ても方法論ではなく「大人が大人らしく生きる」に 尽きる。その生き方こそ、子は親の背を見て育つといえよ う。仕事一途な父、職を持つ母親も多いこのごろ、淋し さを味わい時には反抗することがあっても、子どもはしっ かり親の値打ちを知っている。むかしから「子は親の背 を見て育つ」と言われる所以である。違うとすれば稼 ぐことを第一義とした時代は終わったと言うことだ。 子どもは背中だけでは育たない、と背中を單に背中とし か解釈できないような親だとすれば、まさにこの親こそ 大人になっていない。このことが問題だと思える。  としごろが、学年が同じであったとしても、他家との 比較や真似をすることはむしろ危険だ。



この子だれの子(平成12年5月)

 広い会場をかなり歩いた。ちょっと一服と隅の小さめの テーブルに腰を降ろすと直ぐに酒のワンカップを手にし た老人が向かいの席に着いた。「植木屋さんですか?」と 声を掛けると、地元の百姓で大橋の開通によって車の数 が増え、我が家からの出入や道路の横断が危険なこと、 道端の田んぼにはジュース類の空缶をポイ捨てなどと、 住民としては迷惑もいいところだと憤懣遣る方無い。

  相次ぐ警察の不祥事も飛び出して「学歴や試験の成績で キャリアになるからダメ人間になる」とも、さらに百姓が 割に合わないことや減反施策に関わる食料事情へと発展。 話題は留まるところがない。「むかしは田植も秋の取入 もみんな手作業と力仕事だったから大変でしたよね。」 「食料不足でかぼちゃとかじゃがいもの蒸したものが ごはんの代わりでしたからね」とこれまでほとんど頷き どおしであった私も少し口を挟んだ。 「そんな時代のこと知っとんのかいな。あんた年は なんぼや」と怪訝な表情であったが「百姓がなんぼ努力 してもお天道さんや水の恵がのうてはどうにもなら ん。ほんまやど。」二人の前にはワンカップとビー ルの空缶が小さなテーブルをさらに狭くしていた。 「食うもん粗末にしたり食べ残しせんよう、こどもらに よう言うとけや。」我が子にでも言い聞かせるかのよ うに、別れ際のことばであった。若さと気骨を感じさ せる老人との出会いは淡路花博の印象を強くした。



この子だれの子(平成12年4月)

 あかりをつけましょぼんぼりに お花をあげましょ桃の花・・。この一年、子供たちの成長ぶりを披露する場ともいえる保育園での生活発表会。オープニングはお琴と鍵盤奏による「さくら」。プログラムのおしまいは全園児と保護者がいっしょに「ひなまつり」を歌って幕となったが、開場を待ちかねて早々と行列の保護者たちは流れ込むように会場へ、最前列に陣を取る姿は一寸した凄ましささえ感じさせた。「○○ちゃんここよ」とばかりに手を振る母親は舞台に登場する我が子の姿を撮ることに余念がない。ビデオカメラを意識して演技半ばのこどもが舞台上で静止するひとこまは何か滑稽でもあった。    

 親ごころなどと言われるがその最たるは「我が子可愛いい」に尽きるようだ。舞台上に何十人のこどもが居会せても親の目に写 るのは我が子一人なのかも知れない。次には可愛いからこそ「気に掛る・案じる・心配になる」のも親ごころの表れではないだろうか。さらに又「成長してほしい」元気で明るく素直にとの願望も親としての欠かせぬ ことであり、身体的発育はもと より精神面における発達も言うまでもない。純粋で無垢なこの子らをどんな色に染めるのか、重い課題だ。「いまさえよければ、自分さえよければ」とこんな思考の人間には育ててはならぬ 。「ママ、手を振っちゃイヤ!!」こどもの目が訴えているようにも見えた。


この子だれの子(平成12年3月)

 冬の朝は冷たく寒い。吐く息も白く見える。小学校と は違い中学校は少し遠くなった。登校時、中学生の我が子を 自動車で送ってくる母親が目立つ。暑さ、寒さ、ひもじさから 守ってやることが増すと、強さや逞しさが減る。 親は子を甘えさせてはならない。きびしさをしつけておかね ば世に出てから悔やむ日がくる。母親の免許証と車の保有が禍 いして甘えの構造が助長されまいかと思えてならない。  世の中が悪い、政治がなっていない、社会が歪んでいる、 学校教育が問題だ、などと外へ向けて憤る親も目立つが、 子供を歪めているのは、むしろ親の利己心、虚栄心から 子供を責める、勉強せよと命令し監視する、世間に恥ず かしくないようにとあせる心が因になってはいないだろうか。  子どもの育成を学校任せにするのではなく、親が自らの役割 責任を自覚し、人間としての未熟さ、ましてや感謝の心や報 恩の念など、己れの足らざることに気付き、見方、考え方、 日々の生活態度やふるまいを正すことこそが責務だ。  社会という荒波、世間という風。恐ろしいのは荒波や風そ のものではない、風や波に巻き込まれて行く己れの脆さであ り、誘惑に負ける心の弱さである。精神の強さ、心の逞しさ 志の固さこそ身につけ育てたい基本ではあるまいか。


この子だれの子 (平成12年2月)

−総務庁・青少年問題審議会(中間まとめ)より抜粋−その2

 現代社会の一般的な風潮に関する問題     
青少年の問題は、その時々の社会全体の抱える様々な問題を反映したものであり、特に次のような傾向が見受けられる。   
第一に、人は社会的な存在であり、社会の中で人間らしく生きる上で、最低限守らなければならない基本的なルール  について、認識が希薄になりおろそかにされている。     
第二に、特定の価値を自分の都合のいいように解釈して一方的に主張する傾向が見られる。公共的な利益や他人の自由をないがしろにすることまで許されるものではない。   
第三に、戦前への反省から人権の重要性が強調されてきたが、「人権」を主張する中で、社会全体の利益を省りみない行動が  見られる。「権利」と「責任」の関係では、権利の行使には責任が伴うことが軽んじられがちである。  
第四に、子どもの生活からゆとりが失われ、子どもが多様な人間関係の中で自尊の感情や社会性、人との付き合い方を習得する機会が減少している。経済的な豊かさの追求に熱心なあまり、子どもに対しても、ともすれば「より良い職場に」就職するために「より良い学校」に進学することばかりを求めるようになった。