活きる(平成25年12月)
− 『 成功の実現 』 −
生命は、命を生かしている根本要素である霊魂が主宰権をもっているんだ。
この真理を悟ると同時にそれは確固たる信念になります。
持たずともいい重い荷物を、だれにも頼まれないのに頼まれたように思って、一生懸命にぶら下げて、重い重いと困りながら歩いて、しかも放さないでいたと同じような過去を私はやっていた。
あなた方が現在、何か人生に苦労を感じるものをもっているとしたら、それをただ苦しい、情けないと思うよりも仔細にそれを検討なさい。
心を己れの生命が生きるための道具として使わないで、反対に心に使われているがための結果なんですよ。
自分というものを知らず知らず心の奴隷にしているために、年じゅう煩悶や苦悩の虜になっているんですよ。
偉そうなことをいう奴はどっさりいても、その心が奴隷になっていることに気がつかずに言ってるだけの人が多い。
みんな肉体に使われている奴が多い。
少し気の利いた奴になると理性に使われている。
もう少しはっきり言うと、心が肉体に使われているか、さもなければ、心が心に使われている。
これじゃねえ、どんなに学問しようが、またどんなに努力して仮に物質的な富に恵まれても、ほんとうの幸福はこない。
どんなことをしても来やしません。
くると思っているのが多くの人の大間違いなんです。
だから、「自分と言うものは肉体や心の奴隷でもなく、従者でもない。したがって、肉体や心に使われるべきでない。どんな場合でも、心をりっぱに使いこなしていかなければいけない」という悟りを開かなければだめだよ。
それがほんとうの完全な人間なんだ。
「新天地を拓く その4」
抜粋:要約
人間塾 玉田 光久
活きる(平成25年11月)
− 『 成功の実現 』 −
さあ、そこで次の問題を考えよう。
人間のほんとうの正体が目に見えないひとつの気体であったならば、お互いの命の主宰権もその気体がもっていなければならないはずですね。
そうだよ。はっきり考えなさいよ。
時が来ると、みんなとにかく息が止まるんだぜ。
止まっちまったら、あなた方、わかりはしないけど、止まった人間の脇に行ってごらん。
まだ体はとけないから、止まったと同時に、どこにいっちゃったんだろうっていうのはないんですよ。
今、偉そうな顔をしてこんなこと言ってる私だって、気がぬけちまえばもう何も言いませんよ。
同様なんだ、あなた方もね。
私ばかりじゃないんだから。
その気があなた方の命の取締役であり、総裁であり、会長であり、マネージメントの実力をもってるものなんです。
それを多くの人は考えませんよ。
しかし、それが段々わかってくるようになるんですよ。
自分の命のほんとうの主宰権を持っているのは肉体じゃなかった。
見えない気体が自分の命の主宰権をもっているということがわかる。
この気体を日本語では霊魂といってます。
英語ではスピリットといいます。
今まで知らないこととは言いながら、消極的な観念や思想の虜となって夜もろくろく安眠できずに、そのため活力を減退し、心ならずも健康や運命まで悪くしていたという自分の愚かな生き方が、我ながら実におかしもあり、またくだらなくもありというふうに、しみじみと考えさせられてくるようになるんですよ。
結局、自分の心の中に知らずに溜ってしまった雑念や妄念や邪念が、いくぶんなりともきれいに掃除されたがための結果なんだよ。
「新天地を拓く その3」
抜粋:要約
人間塾 玉田 光久
活きる(平成25年10月)
− 『 成功の実現 』 −
心が積極化された状態であれこれ作用すると、ああ、肉体は自分じゃないということが自然にわかってくる。
肉体はほんとうの自分が生きる道具で、ほんとうの自分というものはもうひとつほかにあるんだ、ということに気がつくんですよ。
私は三十五、六歳までそれがわからなかった。
明けても暮れても、この体が自分だと思ってた。
道具を自分だと思って、ほんとうの自分の正体を自分でも知らずに生きていたという愚かな男であったんですよ。
ほんとうの自分というのは、目に見えないものだからわからないんですよ。
どういうわけで目に見えないかっていうと、一つの気体だから見えないんです。
どんな目のいい人だって、気というものは見えませんよ。
手近な話しがお互いこうやって生きてるのに、五つの元素で組み立てられてある空気のなかで生きているんだが、どんな目のいい人でも空気を見たものはないだろう。
空気を見る眼鏡もできやしないもん。
だいいち空気の中の電波ごときだって見た者はないでしょう。
ラジオやテレビの電波が、両方合計すると二百幾種類あるんですってね、今。
それが全世界を漂ってるんだ。
けど、どんなに目がいい奴でも、ああ、あそこに浪花節の電波が、ああ、こっちに漫談のってことはわかりはしませんよ。
けれど、ここに精巧なラジオなりテレビジョンを据えつけてチャンネル回せば、ああ今イギリスのが、あ、今フランスのがってわかる。
その昔、まだ文化の幼稚な時代に、目に見えないものはないと思っていたんですよ。
釈迦や孔子やクリストやマホメットの生まれた時代にはぜんぜん目に見えないものは存在しないと思っていた。
いわんやまして、自分というものを肉体以外には考えないのが当たり前でしょう。
「新天地を拓く その2」
抜粋:要約
人間塾 玉田 光久
活きる(平成25年9月)
− 『 成功の実現 』 −
人間は進化向上という尊い使命を果たすべくこの世にきたのだ、知る知らざるを問わず。
多くの人々はいろんな議論や理屈をいう割に、人間がこの世に何しに来たかということについて知らずに生きているのであります。
当てがなく旅に出たと同じ結果が来てしまって、結局、人間としての与えられた幸福どころじゃありません。
毎日、日にちの人生がきわめて無意味になってしまう。
自分というものが、進化向上という宇宙本来の犯すべからざる目的をお助けするためにこの世に生まれてきた、これが真実なんですから。
真実である以上、お互い万物の霊長たる真価を発揮して生きなければ嘘でしょう。
心身を統一せよとお教えてしている。
第一番にあなた方が正しく悟らなければならないことは、人間の心が、お互いの命が生きるための道具として造物主によって、与えられたということを忘れちゃいけない。
これがねぇ、忘れるどころじゃあない、全然気づかずにいる人が多いんですよ。
その結果、どうなるかというと道具に使われちまうんだ。
いつも私、口癖で言ってるだろ。
心というものは熟練した技師が、手足のように精巧な機械を動かすように使わなければいけない。
そして初めて、万物の霊長たる人間の本来の面目がりっぱに発揮できるんだ。
そういう本来の面目どおりの人間になるのには、何をおいてもまず一番に、この体を自分だと思っちゃいけないんだ。
体は 自分のものなんで、自分じゃないんです。
ちょうど、あなた方の体に着ている着物と同じものなんだ。
自分の生きるために必要とする道具として着てるんだもんね、それと同じなんだ、肉体に病が出たりすると、すぐ肉体が自分だとおもっちまうんだよ、心が積極的でないからなんです。
「新天地を拓く その1」
抜粋:要約
人間塾 玉田 光久
活きる(平成25年8月)
− 『 成功の実現 』 −
「あるがままに生きる」すなわちこれ、天地陰陽そのままだ。
憎しみもなければ、愛もない。
これが要するに、科学的にいうとプロトン、エレクトロンのそのままの姿。
宗教でいえば、人間の霊魂の姿だ。
霊魂という本心、良心には憎しみもなければ、愛もないのよ。
そのままなんだ。
純一無雑。
この純一無雑の気持ち、心持ちこそまことに尊い。
だからねぇ、それはもとより人に不親切にするより、親切にした方がいいのよ。
けれども、親切にしようがための親切じゃないぞ。
やることの結果が親切であった場合は親切。
孝行をしたいと思ってした孝行は第二義だ。
やってることが孝行であって、ほんとうの孝行。夫婦の愛は、仲よくしようと思って仲よくしてるときはほんとうの仲よしじゃない、ねぇ。
仲よしにしなくても、その結果が仲よければほんとうの仲よしだ。
世間を見てごらん。
泣いている奴がある。
怒っている、悶えている奴、恐れてる奴がある。
やきもち焼いてる、迷ってる奴、苦しんでいる奴、もう、人って奴はみんなそうだ。
今度は、ほんとうの人間の生きる姿はここにありということを示してやってください。
我れあるところに必ず光明が燦然として輝くから。
そういう気持ちの人がたった一人そこにいたら、その人の光明で、すべての人間の魂は洗い清められる。
今までのあなたは方は、自分の幸福のため、健康のためにと。
もうそんな第二義のことは忘れちまえ。
真理に即して生きてさえすれば黙って丈夫になれて、黙って運命がよくなるに決まってるんだから。
我れ因縁あって人としてこの世に生まれし以上、こうした本然の自覚によって、本当の人間として、きょうから生きることに覚悟のほどを決めてください。
「もはや何ものも恐れず その2」
抜粋:要約
人間塾 玉田 光久
活きる(平成25年7月)
− 『 成功の実現 』 −
私がインドに行って三日目、先生からこういう質問が出た。
「野原を歩いているときに、後を見たら虎が追いかけてきた。たまらぬと逃げ出して、どこか安全なところはないかいなと、はるか向こうを見ると、大きな松の木が天にそびえてる。これだっていうんで松の木に登って、チョイと下を見ると、その松の木の枝の出ている下は底知れない谷だ。ここなら虎も上がってこないわ、ここにしばらくいようと思っているときに、ヒョイと気がついて頭の上を見たら、頭の上から大きな蛇がお前を飲もうとして紅蓮の舌をペロッペロッと出して近寄ってきた。上に大きな蛇、下に虎。そこでこれは困ったというんで、どこかに逃げるところはないかと、ヒョイと足元を見ると、谷底へ蔦葛が下がっていた。この蔦葛にぶら下がっていれば、蛇も虎もどうすることもできないっていうんで、蔦葛にぶら下がった。やれ安心と思ったのもつかの間、手元に何か怪しき響きを感じてきたので、ヒョイと上を向いたら、そのつかまっている蔦葛の根を、リスめが来て、ボリボリ食いおった。どうする?」。
こういう質問なの。私はね、もう駄目だという生死の中をくぐり抜けた経験者でありますから、にっこり笑ったよ、その時に。どうせむこうの満足するほどの返事はできないかもしれないけども、私としてはこう考えた。
何もあわてることはないじゃないか。
切れるまでは生きてんだから、切れて落っこちてから後のことは、落っこちてから後に考えればいいと思ってね。
「落っこちるまでは生きておりますから、そのまま安住してます」
と言ったら「偉いっ、それなら先ざき見込みがあるぞ。それが人間の世のほんとうのありあさまじゃ」
「もはや何ものも恐れず その1」
抜粋:要約
人間塾 玉田 光久
活きる(平成25年6月)
− 『 成功の実現 』 −
現代の文化人の健康が弱いのは、世相がどうだの、生存競争の摩擦が強いのってことばかりが原因ではなく、文化民族の心の弱さというものが非常に大きな原因をなしているんです。
現代に生きている人は、現代人の心の弱さを気がつかずにいます。
けれども、少なくとも今から三、四十年前に青年期を生きていた人は、その当時の人間の心と今の人間の心と比較して考えてごらん。
今の人間からその当時の人間を考えたら、野蛮人だと思うかも知れないほど心が強かったろう。
今の人間、それが文化民族だという形容で自己弁護をしているが、なんと気の弱い人間の多いその証拠には、薬の売れることと淫祠邪教の蔓延ること。
これは、気の弱い人間が多いから薬が売れたり、あるいはへんなロクでもない宗教が雨上がりの竹の子みたいに生まれてくるんじゃないか。
右みても左みても、もう明けても暮れても肉体肉体。
理屈で考えなくたって、目に見える事実で朝晩体験してるはずだがなぁ、心がどれだけ大事かっていうことを。
いかがです、あなた方。
心に何かの衝動が起こると、すぐ肉体に変化のくることを経験していません?
腹が立ちゃ青くなるし、びっくりすりゃ震えるし、うれしきゃ笑うし、恥ずかしきゃ赤くなるだろうといったって恥ずかしいってどんなこと、なんて聞く女があるくらいだから、そいつは実感にこないと思うけどもねぇ。
あなた方はね、人、人、人の仲間で生きているから、いろんな感情や感覚の摩擦やショックがあるんだと思っていたら大間違いよ。
私なんか前後十年、満州、蒙古、インドの山の中にたった一人でいたのですよ。
だれもいないところには何の摩擦もないと思ったら大間違いなんだ。
「より強く、逞しく その3」
抜粋:要約
人間塾 玉田 光久
活きる(平成25年5月)
− 『 成功の実現 』 −
科学的に言うと、心が消極的になると一番先におっかない現象は、循環器障害。
血液が循環する血管の中にいろいろな変化が起こるから血圧が高くなったり、そうかと思うと反対に血圧が低くなっちゃったりする。
そうしてさなぎだに、血管の中をことごとく値打ちのないごく悪い血液が流れているから、その結果がどうなるかというと、臓器障害。
人間の体のなかに生命を生かしておくのに必要な、肝臓、脾臓、膵臓、腎臓、いろいろ臓という名のつくものがあるでしょう。
胃の腑、腸、いわゆる五臓六腑の働きが鈍っちまうんです。
それで臓器障害の中でもいちばんおっかないのはですね、肝臓障害なんです。
肝臓の中の糖原質の分解というものが異常亢進されると、糖分が体の中へ増えちまうんだ。
この中に医者もいるから良く耳を澄まして聞きなさい、お医者さん。
あなた方、糖尿病の患者に会うとすぐ砂糖をよけい食べちゃいけないとか、インシュリンの注射でもすれば糖尿病は治るというふうに思っているのがあなた方の学校で教わった医学だ。
それで治りますか、糖尿病が。
治ると思う医者があったら手をあげてごらん。
そうすればそうするほど、ちょうど流れる水をただ一時的につっかえ棒して、通せんぼしているだけの結果でしょう。
食い物の糖分を食べちゃいけないって言いながら、精神方面でしょっちゅう糖分をよけい出していれば、結局、何にもならない。
だからどんなに食養生しても精神的な方面が安定していなければ、いわゆる肝臓内の糖原質の分解という自家現象で糖尿病は治らないんです。
ましてや、インシュリンを注射するなんていうのは、金とりながら患者を毒殺しているのと同じなんだ。
「より強く、逞しく その2」
抜粋:要約
人間塾 玉田 光久
活きる(平成25年4月)
− 『 成功の実現 』 −
恐ろしいのは心の感じた「再反射作用」なんです。
これに、あなた方は気がつかないで、ほんとからいったら、もっと健康で幸運に生きられる人生に、あなた方自身が泥塗っているんだ。
五か十のわずかな感覚なり感情なりが、神経反射の調節がとれていないと、心に百、二百と大げさに伝わってくるんです。
それも、伝わって来ただけで消えちまってくれればいいんだけども。
怒ったり悲しんだり、恐れたりすると、血液とリンパが、みるみるその生命を完全に支えきれなくなるように悪くなっちまうんです。
恐れば血が黒褐色になって味わいが苦くなる。
悲しむと茶褐色になって味わいが渋くなる。
「あ〜ぁ、おっかないな」と思うと、丹青色になって酸っぱくなる。
そういうふうに色と味が変わっちまうと、血液本来の姿が消えちまうんですよ。
血液本来の姿というのは、弱アルカリ性でなければいけない。
弱アルカリ性の血液であるかぎりは、黴菌が入ったからって、けっしてその人間は病には冒されないんですよ。
これを多くの人は知らないんだ。
コレラの黴菌を鵜呑みにしようと、腸チブスの黴菌を飲もうと、血液がアルカリである限りはけっして伝染病には冒されないよっていうんで、コレラの黴菌を丸飲みにしたという有名な話しがあるでしょう。
気の弱い奴はね、バイ菌でない普通のバクテリアに冒されても患うんだ。
それはなぜかというと、血液が酸性化しちまうから。
学問的に言うと、アジドージス(酸毒性)という血液になっちまう。
そうなると何の原因もなくても風邪ひいたり目が回ったり、頭が重くなったり食欲が進まなくなったり、夜が眠られなくなったり、もう変てこりんな体になっちまうんですよ。
「より強く、逞しく その1」
抜粋:要約
人間塾 玉田 光久
活きる(平成25年3月)
− 『 成功の実現 』 −
私はいつも言うんだ。
積極的な言葉のみをつかって生きている人が多くなれば、この世は期せずしてもっともっと美しいりっぱな世界になる。
だから、どんな場合があっても消極的な言語表現をしないように気をつけなさいよ。
言葉というものは魂から出てる叫びなんだから。
ですから、私は、毎朝起きますと、もちろん起きる時も寝る時もそうですが、ニッコリ笑って「ありがとうございます」と必ず言う。
天に向って感謝します。
そして同時に「ああ、生きてた。ありがとうございます」。
夜寝る時も必ず私はお礼を申しあげて寝ます。
あなた方は生きているのが当たり前だ、目をさますのが当たり前だ、とこうなるんだ。
当たり前じゃありませんよ。
人間はやっぱり、終始感謝の気持ちを頭の中にもって生きるということ。
そうすると、不安や不満というものはなくなる。
「箱根山、駕籠に乗る人かつぐ人、してまた、その草鞋をつくる人」。
この世の中はもち合いです。
旅人は駕籠かきがいて楽な旅ができるし、駕籠かきは乗る人があってその日の生計が過ごせるし、駕籠かきはまた草鞋をつくってくれる人の草鞋を履いて駕籠がかつげる。
草鞋をつくってくれる人間は、買い手があるからこそ一生懸命内職して飯が食える。
それを考えてみたら、お互いみんな世の中は助け合い。
どんあ場合があっても、すべてが自分と同じ人だと思って、生きている命に対して尊敬をはらって、にこやかな人生に生きて、何事に対しても感謝を先にして喜びの人生に生きなさい。
人生は心ひとつの置きどころ。
申しあげたことは尊い消息であります。
今夜から、せめて根際だけは生まれ変わった人間になられたいことを、広く人の世のために念願して終わります。
「恬淡明朗 その6」
抜粋:要約
人間塾 玉田 光久
活きる(平成25年2月)
− 『 成功の実現 』 −
昼間はどんな場合があろうとも、明るく朗らかに、生き生きとして勇ましく生きる心持ちをくずさないように。
それには、言葉を気をつけなさい、第一に。
憎いとか、腹が立つとか、悲しいとか、いやだとか、まいったとか、助けてくれとかいうような、要するに消極的な意思表示を言葉で出さないように。
さっきも言ったとおり、言葉は言ってしまった時に、その音響はなくなっちゃっているようだが、波動が残っているということを考えてみたならば、かりそめにも我が口から人の幸福をのろったり、人の喜びをそこなうような言葉は冗談にも言うべきでないということがわかりはしない?
わからないかい。
カリアッパ先生であったけれども、ある朝こういうことを言われたんです。
「毎朝、朝の挨拶のあと、おれはお前に、きょうはどうだいと聞くと、必ずお前は(あまり良くありません)と言うな。それを言うとき楽しいかい?」
「お前は自分のつかっている言葉に、自分の気持ちがそこなわれたり、あるいは非常に鼓舞奨励されたりするという直接的な事実を少しも考えていないな」
「我々は造物主によって便利な言葉というものを人間だけに与えられているが、その言葉が積極的に表現された時と、消極的に表現された時には、直接的に実在意識の受ける影響というのは非常に大きいのだ。きょうもうれしいです、楽しいです、ありがたいですという言葉をいった時には何とも言えない快さを感じるだろう。すると、その実在意識が感じた感じが、潜在意識へ直接的に影響して、実在意識と同じような気持になると同時に、神経系統の生活機能も同様に良くも悪くもなるんだ。結局において、お前の生きる力が、その言葉の良し悪しによって良くも悪くもなるんじゃないか」
日々つかっている言葉ほど、強烈な暗示力をもっているものはないんだぜ。
「恬淡明朗 その5」
抜粋:要約
人間塾 玉田 光久
活きる(平成25年1月)
− 『 成功の実現 』 −
寝床の中は考えごと無用にしたほうがいい。
なかには昼間喧嘩したことをもういっぺん思い出して「あん畜生、あんなことまで言いやがって」なんて怒っている奴があるんだよ。
まるで漫才ですよ。
夜の根際は、哲学的に言うと、生ける生命をそのまま偉大な造物主のお力にお預けする時だぜ。
わからない?よく寝ていて何も知らない時に、あなた方は死んでいるか生きているんだかわからないけれども、あくる日、目がさめるところをみると、生命の炎は消えていなかったんだな。
その生命の炎がオリンピックの聖火のごとく絶え間なく燃えているのは、あなた方が燃やしてんの?
洒落たこと言うなよ。
あなた方の生命を生かしてくれている造物主のお力が、あなた方を守ってんじゃないか。
という尊い直前に、何で心を汚すんだ。
心を汚すと、そのお力を頂戴する受け入れ口をふさいだことになるんじゃないか。
夜の寝際に神経過敏になってクヨクヨいろんなことを考えていると、電気のコンセントを切っちゃったのと同じじゃないか。
あなた方の家の暖房の電気コンセントを切っちゃったらどうなるの。
どんな上等な暖房装置のある家でも、ただ置いてあるだけだろうが。
暖かくも何ともなりゃしない。
造物主はどんな悪人といえども、この世に生きているかぎりは、その人間の生命の火を寿命の続くかぎりは燃やしてやろうという尊い思召しをもっていられる。
それを知らないとはいいながら、自分がそれを断るような間抜けなことをしなくったっていいだろう。
夜の寝際に神経過敏でクヨクヨ、ジメジメ思っている人は、結局、宇宙エネルギーの受け入れ態勢を自分からくずしていることになるんだぜ。
せめて夜の根際だけは、磨きたてた真珠を、薄絹につつんだようなきれ〜いなきもちになりましょうよ。
「恬淡明朗 その4」
抜粋:要約
人間塾 玉田 光久
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