今月のメッセージ

      
 
 

この子だれの子(平成22年12月) 
− 『 うしろ姿 』 −


 地域の中学校で、秋の恒例行事「文化発表会」に招かれた。テノール歌手の出演やバイオリンによる合奏など、プロによる芸術鑑賞の後は、学年ごとの大合唱に続き、各クラス対抗の合唱コンクールだ。
 私達のクラスは・・・と練習に励んだことによってクラスの仲間意識がより強くなったと、今日に賭ける思いを語り、曲目やピアノによる伴奏と指揮者を紹介、緊張の中でのスタートはどのクラスも同じであった。出番を待つクラス、既に力いっぱい声を出し切って舞台を降りた者達、その後方にはぎっしりと埋まった保護者席からも、一曲ごとに大きな声援と拍手が飛び交い、舞台と客席との一体感が伝わってくる。しかし先程からの快い感動とは別に、当方コンクールの審査員として胸が痛むのだった。
 声の大きさや男女のハーモニー等の他にも、舞台下手より登場、歌い終わると上手へ退出、その出入りの態度や歌う時の姿勢、さらには指揮者についても別途採点の対象とあって、どのクラスも甲乙つけ難く悩んだのが正直なところだ。歌っている生徒の表情はよく見えるが、後ろ向きの指揮者は顔の表情が分からないと思っていたがよく見ていると背中にその違いを感じ取れた。
 かなり以前のことだが、大手企業の人事担当者が新入社員の採用試験で面接を終え、相手が席を離れる時の後ろ姿で合否を決めると話したことを思い出す。

※語る人貴し、語るとも知らで からだで教える人 さらに貴し
※導く人貴し、導くとも知らで うしろ姿で導く人 さらに貴し

 誰が言ったかは知らないが、我が子たちに私の後ろ姿はどんな風に映っているのであろう。家内に訊いてみようかな?
返事が怖いなぁ〜止めにしよう。

 


この子だれの子
(平成22年11月) 
− 『 見えない心のベクトル 』 −


来春に卒業見込みの高校生や大学生が未だ就職の内定が決まらず、大学生の中には敢えて留年コースを選ぶ者も居るとか。
そのむかしにも「大学は出たけれど」と揶揄された時代があった。
その意味こそ違え今は景気の低迷などと社会問題ともなっているが、就職難に関しては我が青春時代も全く同様であった。

 縁故先の仲介で訪ねた先は、創業間もない小さな商店だった。
「縁があってとは言え他所さんの大切な息子さんを預かるからには、当方としてはあんたを一人前の人間に育てると言う責任がある。あんたにも世の中で役立つ人間になって、これまで世話を掛けて来た両親に喜んでもらえるように恩返しをすると言う、大きな使命があることを心に誓うのや」!!
言葉の重みと語気の勢いにからだの震るえを覚えた。
その後も・辛さや苦しさに出会っても心を倒すやない、心が倒れると身が倒れる。
・お金や物にはむしろ不自由しとくこと。但し心の貧しい人間にはなるな。
・狭い心では世間が狭くなる。先ず相手の話を聴けるだけの広い心を養うこと・・・等々と。
平易な例えを持って優しく、時と場合に合わせ厳しくもありとかく心の向きや事物の受け留め方が示唆の重きであった。

 理由も無く反発したい気分や、自分自身との葛藤に投げ出したい気持ちも繰返したが、右も左も判からぬ、全くの世間知らずの相手に・・・「何としても育てずには居れない、育って欲しい・・・」こんな大きな親心があればこそ。
そんなことに気付くのは後々のことだが、50有余年を経たいま只々感謝である。

 いかに高度な精密機器が開発されようとも、歪んだ心を矯正したり、心の向きを変え、心を洗い替えなど不可能であろう。
「鉄は熱いうちに・・・」の例え。
若い時代にこそ覚える能力よりも考える力や心情教育の重要さを思う。

 

この子だれの子(平成22年10月) 
− 『 生きていればこそ!! 』 −


S君は強度の喘息で入退院を繰返し、小学生時代はとかく休みがちを余儀なくされてきた。
 中学では吹奏楽部に入部、それでも時折の発作に苦しみながらもやっと3年生にまでこぎつけた。
「高校へは行きたくない」と云うS君だったが、大学を出て企業戦士とも云う立場の父親と進路の問題をめぐって意見が対立した。
 父親として我が子の将来を案じ再三に渉る話し合いの中で「今どき高校さえも行かない息子が家に居ては恥ずかしくて俺は会社へ行けない」
 この父親のことばにS君は猛反発、「こんな父親とは思わなかった」と家を出た。
 外泊先が親しい友人宅であることを母親には告げていたが1週間ほどのあいだ、両者の間に挟まった母親の苦悩も想像を超えたものがあったであろう。
 子どもの心の奥に今も父親不信の念が強いと云う。
 ある告別式でのこと、久々に出会ったS君の母親を「お茶でも」と誘ったことから、彼女が涙をためて話した親子の姿である。
 はたして、10年、20年後、この親子の姿や社会情勢など人間の我々に予知すべくもない。むしろ父親の「恥ずかしい」はいったい何なのか。
その頃何度も生死を彷徨ったS君に、「どうか元気で生きて居て欲しい」と願わずには居られない。

猛暑続きの今夏もようやく一段落した9月半頃、S君の母親が訪ねて来た。定年退職まで余すところ1〜2年となった夫は中国への出張を重ねていたが、今はドイツに赴任中とのこと。
「あの頃、心配を掛けた息子がパイロットとなって空を飛んでいる・・・」とユニフォーム姿の写真を見せてくれた。
「不安に怯え悲しみに泣いたあの頃、こんな日が来るなんて・・・嬉しくて、今はとっても幸せ」と声を詰まらせ涙した。
「生きていればこそ」!!写真ではないS君に逢いたい!!

 

この子だれの子(平成22年9月) 
− 『 65を辿る 』 −


 ドドォーン〜聞いたこともない大音響と、ものすごい勢いの強い風が通り抜け、直ぐさまゴォ〜ッ!!地面が割れて家が壊れてしまうかとさえ感じた。
びっくりして外へ飛び出した近所の人たちが、怖かった・・・いったい何だったのか?とお互い顔を見会わせていたその時、アッ!!あそこ!!と誰かが指した。
 真っ青の空にピンク色の雲が・・・集まっていた人たちは皆んな黙ったままで、雲の拡がりを見つめていた。
全身が縛りつけられたように、初めて目にした光景に声が出なかったのだと、今にして思える。
そんな出来事(S20.8.6広島に原爆投下)からしばらく後に、家の近くの広場でのことだった。
大人たちが多勢集まり大声で泣いている。
抱き会って泣いている人たち、地面に伏して何かを語りながら肩を震わせている人、正座したままで何かを拝む格好の人もたくさん居た。
ガックリと項垂れたままの人、まるでこどものように泣き叫びながら歩き回っている人もあった。
 こんなありさまが何を物語っているのか、当時8才の私には全く知る由もなかった。(S20.8.15天皇陛下ご自身がラジオ放送によって、敗戦と終戦を告げられた)
その頃私たちは広島にほど近い呉市に住んで居た。
父が海軍の士官だったことや、水兵さんがいっぱい居て、きっちりと並んで歩く姿に、かっこいいな〜などと感じたのも、そこが江田島の海軍兵学校であったことを知ったのはかなり後の事だった。
海軍兵の父親はいつも留守、夜になると「空襲警報」の発令に防空壕へ逃げ込むことは再々だった。
今年も65回目の終戦記念日、政府主催の全国戦没者追悼式が開かれた。
その夜NHKスペシャルドラマ「15歳の志願兵なぜわが子が戦争に・・・」を観た。
戦争は絶対にしてはならない。

 


この子だれの子
(平成22年8月) 
− 『 夏の火鉢 』 −


 故人の法要にと親族が参集した。
「よく降るなー」「えらいこっちゃな〜裏の川大丈夫かいな〜」いかに梅雨期とは言え連日の雨量には閉口気味の最中、玄関先では近頃の天候が主な話題となった。
一方、この家の庭先に咲く大輪の紫陽花は、雨の中を訪れる人々にようこそと、このところ嫌われものの雨にさえも、活き活きとまるで歓迎しているかのように思えるのだった。
 さて、テレビの画面からは山崩れによる家屋の倒壊や、まるで水中船のごとく水をかき分けて走る車の姿、道路のマンホールから吹き上げる力強い水の姿であったり、寸断された道路、その崖下に横転した何台もの乗用車・・・。
人間をはじめあらゆる生物にとって、我がいのちとして欠かせぬ「水」であり、その反面水の持つ勢いの強さは真に脅威そのものであることを知らされることにもなった。
 やがて仏事法要の勤めも無事に終了、住職をお見送りした後は会食の席となった。「あと少しで定年だが、それ迄会社がもつか」?と不安顔のS氏。
今春就職、職場での初めての飲み会でのこと。「上司の挨拶や新人の自己紹介のあと宴会になった。注いだり注がれたりはほとんど無し、2次会の誘いもなかったし、全然盛り上がらんかった」と寂しげに語ったN君。
 お互い隣り同志での会話も弾み、ここかしこから笑い声も聞かれるようになった頃に、席上一番年輩格の方からこんな話しが出た。
「なんぼ男前でも、いまはイケメンとか言うのんか?絵から抜け出たようなと例えられるような美人でも夏の火鉢ではどうもならんわ」と。
夏の火鉢??
怪訝に感じたのは彼一人ではなかったと思われるがT氏が意味の解釈を求めた。
「誰も手を出さんじゃろが」との返事にどっと笑いが起きたが、「人間は人に好かれることが一番、仲間が多いか、目上、上司からの引き立て、困ったときは協力しようと人が手を貸してくれるか、自分の努力はもちろんだが、周りからの支えなくして何事も成就しない」新入社員のN君の目が輝いていた。


この子だれの子(平成22年7月) 
− 『 トライやる ウィーク 』 −


 今年も中学2年生を対象の体験学習、トライやるウィークを目前にしたある日、市内の中学校勤務のY先生と遭遇した。
 Y先生が2年生担任だったその年に始まった全く初めての事業だった。先ずは生徒を預かってもらえる事業所のリストづくり、次には相手先を訪問、トライやるの趣旨説明である。耳慣れぬこの事業に対して種々の質問も当然である。
 明日からどんな作業をするのだろうと生徒たち。無事に勤めてくれるだろうか、ちゃんと挨拶が出来るかと教師や保護者の心配。
 受け入れ側にあっては中学2年生そのものが分からない。どのように関わったらよいものかと、立場のちがいこそあれ、不安や期待はそれぞれに共通点でもあり、暗中模索、ゼロからのスタートであった。
 そんな初年度の苦悩を体験したY先生との想い出話は大いに盛り上がり、懐かしくもあった。 −あれから13年−  学校、家庭、地域の連携が不可欠であることが、改めて認識されるいま「トライやる」の名のもとで、生徒たちのチャレンジがその絆を深めてくれていることは、実に喜ばしいことだと思える。
 煩わしいことを承知で受け入れて下さった多くの事業所には、感謝を込めてお礼を申し上げることは当然のこととして、トライやると言う名の5日間を、生徒たちの体験学習としてのみに終わらせることなく、次世代を委ねる大切な若者たちと、関わったお互いそれぞれも「育成の学び」や、自己の「人間育ち」のウィークと捉えたいものである。 「仕事とは何か」、責任感や使命感など、「働くことの意義」こんな意識が芽生えるよき機会でもあってほしい。等々を短い5日間に求めるのは無理かも知れない。 「とにかく事故や怪我の無いように・・・」が一番であろうか。


この子だれの子(平成22年6月) 
− 『 石楠花園にて 』 −


 石楠花の大輪、自然が創り出すあまりにもその美しさに暫し足を止めた。先ほどから一人で漫ろ歩きの青年も、私の傍に立ち自分自身に語りかけるかのように感嘆しきりであった。
「なんとも美事ですよね!」こんなひとことがきっかけで、相手の青年は岡山の小学校に勤める先生で、今は2年生の担任だと話す。
「少子化による学級減は仕方無いが、同じ学年での競い合いに欠ける。職員室では先生の平均年齢が高いことは問題だ。特に男性職員が少ないこと、他にも保護者の再教育が必要だ・・・等々と熱っぽく語るのだった。「親が言うても聞かんけえ、先生から言うて・・・」と母親。「担任じゃ言うてもわしがどんな人間か、どこの馬の骨かあんた知らんじゃろう、そんな相手に大事な自分のこどものこと頼むんはいけんで、そりゃ無責任じゃ」!!と切って捨てたと語る。
 胎内で10ヶ月、出生後こどもが最初に認識するのは母親である。懐に抱かれて乳を呑みながら、肌の温もりを感じながら母子一体感がしっかりと育つ。
小学校の2・3年ごろまでのしつけは母親の全責任だとさえ言われる。「今は家ん中に怖いもんがおらんけん、親がこどものことよう観とらんのじゃけん、小さいうちに親の言うこと聞けるようしとらんと、中学生になったらどうするんなら」と担任先生は憤慨の面持ちだ。土地の訛りであろう、耳に伝わる響きこそ優しいがいずれも的を得たことだと思えた。相継ぐ少年事件も因を辿れば、何気なく見逃して来たことの中に種と芽生が潜んでいたことに留意したい。いまは何年生の担任かな?「モンスターペアレンツ?に負けんようにしんさいよ〜」旅先で知り合い、花を愛でるフレッシュなあの先生には今一度出会って見たいものである。



この子だれの子
(平成22年5月) 
− 『 医者になりたい? 』 −


 「俺医者になろうかナ〜」中学生になった息子のあまりにも唐突なひとことに両親は鳩に豆鉄砲だ。「あんた、何考えとんよ!!そんなん無理無理。第一家にそんなお金無いのん解かってるやろ」母親は強く否定したと言う。こんな経緯が母親の実家へと伝わった。
 プロ野球の選手になりたい、サッカーの選手に、或いは漫画家であったり・・・とかく多感な年代だからいろんな夢を見るだろう。それを頭ごなしに切って捨てるのは良策とは思えないぞ・・・むしろ本人の夢をそのまま受け入れて「ワァ〜すごいやんか!お父さんもお母さんも楽しみにしとくわ〜頑張ってよ」!こんな風に言っといてやるんだな。目的意識とか志とか言われるものが、どれほど強固であるか、或いは束の間の夢として消え失せるか、そのうちだんだん見定めがつくだろうからと、里方のおじいちゃんは母親を諭すのだった。
 こんな日からしばらくを経て、医者を目指すと言う気持ちの変わりそうもない孫とおじいちゃんの対面となった。「医者になりたいんだって?そこで質問だけど眼科、歯科、耳鼻科、それとも内科や外科と言ってもいろんな分野があると思うが、もっと絞り込んで見ることが必要だよナ、どんな医者になりたいのかな」?・・・「ホラ!アフリカとか行って、テントの中で難民のこども達を診てるやんか、あんな医者になりたいんや」!!
 まったく予想外の孫の答におじいちゃんは絶句した。
 中学、高校を卒業・・・そして今春、その彼が国立大の医学部に入学を許可されることになった。目的に向かって真剣に挑んだのは本人の努力として評価に価いするが、それ以前に彼を医学の道へと誘うことになったその因は何であろうか?不思議としか思えない。
「合格祝、どないすんや」?と訊くと「あんた!家にお金無いのん知っとってやろ」!おばあちゃんの即答である。




この子だれの子(平成22年4月) 
− 『 卒業に思う 』 −


 弥生、早春、浅春、春暖・・・こんな用語の目立つ3月。地域内の保育園や幼稚園をはじめ小・中学校に加え、校区外の高校からもと卒業証書授与式に招かれ、出席させてもらった。式の後半は巣立ちゆく先輩たちへ、在校生からの贈ることばに、卒業生を代表しての詞へと続くが、さすが多くの中から選ばれたであろう両者、それぞれにその文章力と読みの表現力には熱きものが伝わって来た。
 ネットやメールの普及により、数少ないことばや絵文字によるやりとりで、お互いが理解さえ出来れば便利な方法のひとつかも知れないが、日本語特有とも言える敬語の使い分けや、ことばの乱れに見られるように言語力の低下を少なからず心の痛む昨今だが、年齢の差こそあれ、いずれの会場でもそれぞれに感動を頂戴して至福のひとときを味わえたことは、実に嬉しく思えた。そして過ぎし日の“忌まわしい出来ごと”が蘇るのだった。
 仲の良かった二人は同じ運動部に属し、早々と就職も決まり、大学の卒業式もあと10日と目前に迫った折、自らの運転する乗用車が民家の納屋に激突、二人とも帰らぬ人となった。
 クラブ活動でのあれこれ、卒業後の人生を語り合い、将来を夢見て酌み交わしたであろうその酒が因であったとか。慶びが一夜にして消えた。我が子の卒業を楽しみにしていた両親達の歎きは計り知れない。
一先ず忌明けの法要を相勤めましたとの他にも、夫が放心状態となり、まるで別人の体だとも話す母親の声も重く沈んでいた。既に高校へ、大学にと合格が決まった者たちよ、春風に蕾をちらすことの無いことを念じている。木登りの名人がスルスルと高いところへと登った。あと少しのところまで降りて来た時にあぶない!!と声を掛けた・・・と徒然草の“高名の木登り”の話しを思い出す。




この子だれの子
(平成22年3月) 
− 『 おすそわけ 』 −


 ~~梅は咲いたに桜はまだかいな・・・三味線の爪弾きが似合いそうな出だしの唄がある。祖父の代から親しく願っている知人宅の息子は中学3年生、かねてより県外の私立高校への進学が親子そろっての第1希望であった。  このたび2月初旬合格と決まったのだから、~~梅は咲いたし桜も花開き・・・の心境であろうか。祖母と両親、一男三女の家族、本人も学習塾へ通ったこともなく、それだけに本人の喜びもさることながら二親の感動も格別であろうかと、当方も喜びのおすそわけに預かった気分である。  かなり以前のこと、△親がなんぼ言っても言うようにしないので学校で躾をして欲しい。△学校の勉強だけではダメだから塾へ行かすんや。△将来は子どもを当てにしない、親も子もお互いに自由に生きたらええんや。  いずれも三通り、三人の考えであったが、私には馴染めないのが正直なところである。  さて、そんな喜びから数日後のこと、地域の幼稚園からの招きで園児たちの生活発表会へ、4才5才の園児たちが一年間の成長ぶりを披露する。合奏、歌ありダンスや劇とこどもたちも生き活きと、実にすばらしい舞台であった。その節のプログラムの片面に、ドロシー・ロー・ノルト作の詩「子は親の鏡」を読んで、今月号の読者にも抜粋にておすそわけをすることにします。子どもの部分を社員や人に置き替えて見るのも一興かと存じまする。
(詩) 子は親の鏡 ドロシー・ロー・ノルト作 励ましてあげれば、子どもは、自信を持つようになる 広い心で接すれば、キレる子にはならない 誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ 愛してあげれば、子どもは、愛することを学ぶ 認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる 見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる 分かち合うことを教えれば、子どもは思いやりを学ぶ 親が正直であれば、子どもは正直であることの大切さを知る 子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ 守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ 和気あいあいとした家庭で育てば 子どもは、この世はいいところだと思えるようになる




この子だれの子
(平成22年2月) 
− 『 寅のおはなし 』 −


 昨年の夏は衆議院の解散、選挙の結果は与野党が入れ替り政権交代となったが、マニフェストの内容を巡り何かと物議をかもす中に年が改まった。
  一方では新型インフルエンザの蔓延による学級・学年の閉鎖など、その対策と措置にこども達をはじめ、保護者や学校も三者それぞれに受難の二学期も、やがて平成22年(世紀2010)干支は庚寅と云う新年を迎えた。
  とら、今年の賀状には「竹に虎」の絵柄が目立つ、そんな賀状と差し出し人を想い浮かべながら、ふと若い頃に老人から聞かされた虎の話しが蘇るのだった。『虎は千里の道を行って千里の道を帰える。行った道は必ず帰える。道とは人として通る道が大切であることを教えている。
  例えば仕事をしても後片付けを知らぬと云う事になる。人に恩を受けたがそのことに報いる道を知らぬとすれば理屈は同じだ。道理に叶うた人間になることが肝要だ。虎と云えば強い、恐ろしい。その恐ろしい虎も死ねば立派な皮を残す。人間も世間のため、人のために尽さねば万物の霊長としての値打がない。何かよき事を残して行かねば、何のために此の世に生まれたか!!人として通るべき正しき道を歩むように・・・』と。
  こんな話しを素直に聴けたのは二十代前半であったが、さて今の自分は後世に何を残こせるだろう?むしろ一体何を伝えたいのか!!そのむかし私に言い聞かせてくれたご老人のように、何十年を経て相手の心に蘇るような語りと熱意など、到底真似の出来るものではない。
  近所のこどもらを相手に「良きことをしろよ、天国へ行けるぞ。悪いことをしてると地獄へ行くぞ」!!こんな話しをしようものなら「フゥ〜ン、じゃあ良いことも悪いこともしなかったら中国へ行くんだね」「ワァ〜中国へ行けるんだ〜ヤッタ!!〜」こんな声が返って来そうだ。




この子だれの子
(平成22年1月) 
− 『 あたりまえの反応は 』 その2 −


 我が子が元気に登校してくれる、このごく当たり前がこのところ新型インフル
エンザの蔓延による対処から、「当たり前」では無くなったようだ。
  前回この欄で取り上げた母子をもう一度紹介したい。「元気で登校する子のう
しろ姿に、授業が終わって帰宅したら、今日も一日と学校へ向かって礼を言うよ
うにしたい」に対し「そんなこと子どもの前で言わんとって」!!が母親の返答で
あった。それから何日かが過ぎたある日、母親からの後日談である。
「なぁ〜お母さん、僕が学校行ったら、うしろ姿見送ってありがとう言うとん」
?「昼から帰って来たら学校の方向いて、ありがとう言うとん」?「こども
が私に訊くやんかァ〜。ほんまやナ〜お母ちゃん・・・ちゃんと言うとうへんわ」
「あの時、コンビニの前でおっちゃんが言うとったやんか」!「僕も元気や
さかい遊べたんや。ありがとう言うさかい、お母ちゃんもちゃんと言いや」
・・・「わたし・・・もう胸がいっぱいになって・・・もう・・・この子・・・よう言うわ」
と母親は照れて笑った。
「負うた子に教えられ」の例えは今も生きているようだ。笑って、泣いて、感動
や歓喜も味わったであろう、心配や不安に一夜を明かしたり、苛立ちを越えての
腹立たしさもと、さまざまの体験は親としての資格を得るための必須条件だと思
える。「子育て」は「己育ち」であり、だからこそ「教育」は「共育」だと心得
たい。小学6年生だと言うこの男児には私からも「ありがとう」!!を送りたい。
こども達と保護者で、学校と地域社会が一丸となって皆んなで「ありがとう」の
大合唱をやったら、インフルエンザも逃げて行くかも知れない。「何バカなこと
言ってんだぁ!!そんなことで・・・逃げも隠れもするもんか」!!エッ!!あんただれ?ひ
ょっとして薬品会社の人?歳末の漢字は「新」でした。新しい気持ちでこの一年、
どうかよろしくお願い致しま〜す。
      人間塾 玉田光久

 


平成21年1月〜12月 この子誰の子



平成20年1月〜12月 この子誰の子


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